森づくり活動チェック!環境貢献度etc

森林ボランティアの歴史とこれから

森林ボランティアの歴史

時期を分けて、森林ボランティアの歴史を振り返ります。
そして、その歴史や実態を基に、これからの森林ボランティアを考えます。

(1)1960-1984年:森林ボランティアの始まり

 ■国土緑化運動は森林ボランティアの原点

わが国の森林は、長い歴史の中でさまざまに活用され育まれてきました。しかし、第2次世界大戦後はかなり荒廃した状況にありました。それは、戦時中の軍需用材、戦後の国土復興期における建築用材やパルプ用材、さらには炭や薪といった燃料などとして、森林が過剰に利用されたからでした。
 そうしたなか、「荒れた国土に緑の晴れ着を」のキャッチフレーズに国土緑化運動の一環で、様々なアプローチから国民参加による森づくり活動が進められてきました。
 戦後の国土緑化運動は、1949年に文部省と農林省協議により、山林資源愛護思想の普及と公共福祉に対する寄与の観点で、「学校植林運動実施要綱」が通達され、あわせて「第1次学校植林5カ年計画」が樹立されました。このもとに「学校林」の造成が行われ、その活動は現在も続けられています。そして1950年からは、広く国民への植樹意識の普及の役割を担う「全国植樹祭」が始まりました。また、「緑の少年団」による森林愛護活動も1969年以降に全国に広がってきました。
 1971年以降は、市民だれもが植樹の機会をもてるようにと、環境緑化用の苗木を無償で提供する運動を開始しました。1973年からは、記念植樹活動への助成も始められました。さらに、それまでの個人を中心とした植樹活動から、自治会や婦人会やPTA等が公共空間に「みんなの森」の造成を支援する緑化活動が1978年から開始されました。


 ■失われる都市の緑と原生的な自然

ところで、日本の自然保護運動は.1949年の尾瀬ヶ原のダム計画に反対する「尾瀬保存期成同盟」(1951年「日本自然保護協会」、1960年財団法人化)の発足に端を発しています。1960年代に入ると、悪化する公害問題や開発問題等に対して、「○○の自然を守る会」、「○○を反対する会」などといった自然保護、公害反対運動を行う市民団体が多く生まれ始めました。
 また高度経済成長期には、都市への人口集中が進み、それまであたり前にあった雑木林や里山が急速に失われてきました。都市部の緑地を守るため1966年には近郊緑地特別保全地区を設定する「首都圏近郊緑地保全法」が、1968年には都市緑地の確保を法制化した「都市計画法」が、そして1973年には緑地保全地区制度、緑化協定制度を創設する「都市緑地保全法」が制定されました。
 そうした情勢のなか1971年に環境庁が設置され、あわせて観光地振興を前提とした「自然公園法」に加えて、原生的自然の保護を制度化する「自然環境保全法」(1972年)が制定されました。市民サイドでも、1971年には全国の自然保護団体が一堂に会する「第1回自然保護団体会議」が開催され、同年に78団体が参加のもとで「全国自然保護連合」が結成されました。これらの機運をもとに、1970年代からは多くの自然保護団体が各地で活動を始めました。

しれとこ100平方メートル運動(北海道) 1985年
しれとこ100平方メートル運動(北海道) 1985年
 また、自然保護運動の形態も幅広さをもってきました。1964年には作家・大佛次郎さんら鎌倉市民によって、神奈川県鎌倉市の鶴ヶ岡八幡宮の裏山を守る 「ナショナル・トラスト運動」(「鎌倉風致保存会」)が生まれ、1974年からは和歌山県田辺市天神崎で、1977年からは北海道斜里町での「国立公園内 しれとこ百平方メートル運動」などが始まりました。それらを背景にして、1983年には「ナショナル・トラストを進める全国の会」(現「日本ナショナル・ トラスト協会」)が結成されました。
 また、幅広く市民に対して自然保護教育を推進するために、国立公園内での観察・指導をボランティアで行う動きも制度化されました。1957年に、当時の 厚生省から119名が委嘱されたことに始まった「国立公園臨時指導員」が、1966年には「自然公園指導員」と改称され、公園利用のルール・マナーの徹底 や自然解説等を行う動きが生まれてきました(2003年8月現在、2976名登録)。
 また、国際レベルでも1975年に「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約(ラムサール条約)」、および「絶滅のおそれのある野生動植 物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)」が相次いで発効されて、野生動物の保護に対する機運も高まり、これも自然保護運動の活性化の大きな後押 しとなりました。



 ■林業をめぐる動きの変化

大規模な植林地

雑木林の落ち葉を使っての堆肥づくり(埼玉)

雑木林へのゴミ廃棄も問題に

木材輸入港(東京)

間伐が遅れている人工林

戦後から高度経済成長期にかけて、土木用材や建築材などとして木材の需要が急速に高まりました。木材価格が高騰し大きな社会問題にもなりました。当時、国有林では、国土保全を考慮して毎年成長した分だけ伐採していく「保続原則」が守られようとしていましたが、新聞紙上などでも「伐採制限を大幅に緩和せよ」あるいは「奥地林開発を急げ」と指摘されるほど、国内の木材需要は多かったのです。
 そこで、農山村の人たちによって土木・建築用材としてスギ・ヒノキなどの植林が進められました。その規模は1000万haにもなり、2度のピークがありました。
 1度目は、1954年(植林面積43万ha)。おもに軍需用材として大規模に伐採された跡地への植林です。1950年に始まる「造林臨時措置法」などを受けて行なわれ、約10年で約100万haが植林されました。
 2度目は、1961年(植林面積42万ha)。いわゆる拡大造林による植林です。
 これには、2つの背景がありました。1つは、家庭での燃料が木炭や薪から石油・プロパンガス・電気へと代わったこと。もう1つは、堆肥が落ち葉や堆肥から化学肥料へと転換したことです。この結果、かつては木材伐採量の約半分を占めていた広葉樹の薪炭林(雑木林)は、用途を失なってきました。しかし、広葉樹がパルプ原料として盛んに利用されるようになり、薪炭林は再び伐採が行われ、その跡地に積極的にスギ・ヒノキなどが植林されるようになりました。これにより、人工林率は、1960年には26%だったものが、10年後には33%、20年後には40%へと上昇しました。
  このように人工林が増えていきましたが、成長過程のため当時の木材需要を満たすには至りませんでした。1960年に丸太材の輸入が自由化されると、安価な外材の輸入が年々増えていき、木材の自給率は急激に低下していきます。特に、1971年のニクソン・ショックを契機とした円の切り上げ、1973年の変動相場制への移行、そして1985年のプラザ合意等により為替相場が円高基調になったことは、輸入量の増加と、国産の木材価格低迷の大きな要因となりました。その結果、1960年に87%だった木材の自給率は、現在では20%を下回わるまでになってしまいました。
 戦後復興・経済発展を目的として、林野庁および森林所有者などによって精力的に育てられた人工林でしたが、外材の輸入増大などによる国産材価格の低迷、代替材料の進出、働き手の高齢化や減少などの実情のなかで、人工林を育んでいくために欠かせない除伐・間伐などの作業が遅れがちになっていきました。

 

 

 

 

 

 ■森林ボランティアの先駆け

山火事跡地でのボランティアによる植樹(岐阜)

このように、国土緑化運動をルーツにして、林業活動の低迷による森林荒廃、そして自然保護運動の活発な動きを背景として、1960年代および70年代に森林ボランティアの先駆けといえるいくつかの取り組みが生まれました。
 一つは、岩手県田野畑村で生まれた山火事跡地の再生活動でした。1960年代に入って岩手県・陸中海岸一帯はフェーン現象の影響で毎年のように大火に見舞われ、多くの森林が焼失しました。そうした状況を目の当たりにした早稲田大学教授であった故小田 泰市さんが、1961年から「野外研修」で、学生とともに消失した森林の復興活動に取り組みました。
 その後、1967年に「思惟の森の会」が発足するとともに、村や地域住民等との共同で交流拠点として大学セミナーハウスがつくられ、交流活動を深めながらの森林づくりが現在も続けられています。
 二つ目は、1974年に富山県大山町の造林地で、夏の下草刈り作業の軽減のために計画されていた除草剤の空中散布に反対して生まれた活動でした。当時富山県立大学教授の足立原貫さんを中心とした「農業開発技術者協会」は、除草剤散布による水と土の汚染を危惧して、対案として地道な草刈り作業を若者を中心としたボランティアによって行うことを発案し、「草刈り十字軍」運動が生まれました。
 その活動は、映画「草刈り十字軍」(吉田一夫監督、加藤剛主演/1997年)でも紹介されました。1974~2003年の30年間の実績は、下草刈り面積が約1700ha、参加者は延べ約3万人、さらにはこの活動は東京、神奈川、京都、滋賀、新潟などへと広がっています。


「帯広の森」での植樹(北海道) 1994年
 三つ目としては、北海道帯広市の取り組みがあげられます。1975年に北海道帯広市では、その後毎年約6000人が参加して約1万本の植樹を行う「帯広の森」づくりが始まりました。当時は、開拓の歴史の中で森林は後退し、街の周辺部でも自然を失いつつありました。そこで、当時の帯広市長・故吉村博元さんが「100年かけて失ってしまった原生林を100年かけてよみがえらせよう」と、オーストリア・ウィーン市を参考に、帯広を緑のベルトでつなぎ、緑と共生する街づくりを進めていく構想を提唱しました。
 その構想のもとに、1975年「帯広の森市民植樹祭」が開始され、1991年からは「市民育樹祭」も開催され、市民の手により100年の森づくりが行われています。植えられ育てられている樹木は、動物が住みやすいようにとミズナラやハルニレなど55種類が選ばれています。そして、帯広の森は406.5ha(2003年3月末)あり、そのうちの133ha に約23万本が植えられ育てられています。この森づくりには延べ15万人の市民が参加しています。



 ■各地で始まる森林ボランティア

人々の自然に対する意識が高まっていくなか、1980年代に入ると各地で森林づくりボランティア活動が生まれてきました。
 関東地方では、1983年に「森林クラブ」が結成されました。同クラブは、「森を育てる」ことを通じて自然との触れ合いを体感することを目的に、岩手県で「思惟の森の会」の活動に携わっていた学生を中心として結成されました。発足当初は、各地の林業家の手伝いなどをしていましたが、自分たちで責任を持って森林を育てていきたいという思いから、1985年から群馬県下仁田町に1.6ha、1987年から神奈川県山北町(西丹沢)に1.1haの国有林を借り、植林から始まる本格的な森づくり活動を始めました。
 中部地方では、未来の子どもたちにも、緑豊かな住み良い地球を残そうと、「山から木を一本もらったら、木を一本返そう」、「子どもひとり、どんぐり一粒」を合い言葉に、1981年に「ドングリの会」が活動を始めました。この会では、それぞれの家庭でドングリから育てた苗木を飛騨や富士山などに植え、また、二次林の枝打ちや除間伐といった森の再生作業を行っています。
 関西地方では、1980年10月、但馬地方で地元の人々の協力を得ながら植樹活動を展開する「ブナを植える会」が神戸市で結成されました。1981年6月、関宮町鉢伏高原で第1回のブナの植樹が行われて以降、毎年ブナを植え続け、延べ1万本以上になっています。また、阪神・淡路大震災以後、六甲山においても「緑・豊かな森づくり」をめざしてブナを中心として広葉樹の植樹を行っています。  海外で活動する団体も生まれてきました。1980年から「オイスカ」は「苗木一本の国際協力」のキャンペーンを開始しました。薪炭や建築用材のための伐採によりマングローブは減少し続け、これが洪水や干ばつ被害を各地で引き起こしていました。そこで、同会では、フィリピンなどを中心とした植林プロジェクトを始めました。